
- 【御朱印帳】土佐手漉和紙「朝光」 小判 38ページ 楮紙 白米×淡黄蘗
- ¥11,880
京都府京都市左京区にある「銀閣寺」は、室町幕府第8代将軍・足利義政が造営した山荘「東山殿」を寺院に改めたもので、侘び・寂びの世界を表現した代表的な寺院のひとつです。銀閣寺の代名詞である「観音殿銀閣」を意味する「観音殿」の御朱印は、室町時代の様式美を感じさせる仕上がりです。
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京都府京都市左京区にある「銀閣寺(ぎんかくじ)」は、正式には「東山慈照寺(とうざんじしょうじ)」と号する臨済宗相国寺派の寺院です。京都御所の北に位置する大本山「相国寺(しょうこくじ)」の境外塔頭で、室町幕府第8代将軍であった足利義政(あしかがよしまさ)が東山に造営した山荘「東山殿」を寺に改めたものです。毎年8月16日に行われる「五山の送り火」で「大」の字が点火される大文字山(だいもんじやま)のふもとにあり、門前近くには哲学者・西田幾多郎(にしだきたろう)が思索にふけりながら散策したことから名づけられた「哲学の道」があります。
京の町を焼け野原にした室町時代の応仁の乱(1467~1477)後、義政は戦乱で焼失していた浄土寺の跡地を山荘造営の候補地とし、文明14年(1482年)に東山山荘(東山殿)の造営に着手します。翌年に常御所(つねごしょ)が完成すると、義政は政務を子の足利義尚(あしかがよしひさ)に譲り、自らは造営途中の東山殿に移りました。
戦乱で荒廃した京の町をしり目に、困窮に沈んでいたであろう庶民には臨時の税金や労役を課してまで山荘の造営を進めながら、義政は風流な隠遁生活を送っていました。堂宇は次々と完成し、文明18年(1486年)には今も残る義政の持仏堂である「東求堂(とうぐどう)」が完成します。長享3年(1489年)3月には「観音殿銀閣(かんのんでんぎんかく)」の造営が始まりました。しかし、その年の10月に病に倒れた義政は、翌年の銀閣完成を見ることなく亡くなりました。
義政が亡くなった翌年、遺命により東山殿は禅僧であり名作庭家でもあった夢窓礎石(むそうそせき)を勧請開山として相国寺の末寺となりました。勧請開山とは、本来その寺院の開山ではない僧侶を、尊敬や崇敬の思いから開山として祀ることを意味します。寺号は義政の院号である「慈照院殿」にちなんで「慈照院」と名付けられ、翌年には「慈照寺」に改名されました。
東山殿造営に際し義政は、現在は苔寺(こけでら)と呼ばれている西芳寺(さいほうじ)を手本とし、観音殿銀閣は鹿苑寺(ろくおんじ)の「金閣(きんかく)」や西芳寺の「瑠璃殿(るりでん)」の様式を踏襲したものと伝わっています。しかし、天文19年(1550年)に起こった戦国大名・三好長慶(みよしながよし)と15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の戦により、慈照寺の堂宇は東求堂と観音殿銀閣を残しほとんどが焼失しました。
※金閣寺に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【御朱印情報】京都府「金閣寺」の美しく輝く「金閣」を表す「舎利殿」の御朱印
室町幕府の衰退とともに慈照寺も荒廃しますが、江戸時代に入った慶長20年(1615年)に将軍の別荘として禅宗風の趣を取り入れた大改修が行われました。現在見られる慈照寺の姿は、この大改修に大きく影響され、慈照寺創建当時の面影がどの程度残っているかはわかっていません。
しかし、当時の姿を残す東求堂と観音殿銀閣は国宝に、美しい苔に覆われた庭園は国の特別史跡及び特別名勝に指定され、その歴史的価値が公的に認められています。また、平成6年(1994年)には「古都京都の文化財」の構成資産のひとつとして、ユネスコ世界遺産に登録されました。
※「古都京都の文化財」に関して、以下リンクの記事で紹介されていますので、こちらもぜひご覧ください。
【御朱印情報】世界遺産「古都京都の文化財」構成寺社の御朱印情報まとめ
銀閣寺の通常の御朱印は、「観音殿」と記される御朱印で、御朱印帳に直書きしていただけます。拝観前に御朱印授与所に御朱印帳を預けて拝観後に受け取るシステムになっています。
中央に「観音殿」の墨書きと三宝印「佛法僧寶(ぶっぽうそうほう)」の朱印、右に「奉拝」と「参拝日」の墨書きと「東山」の朱印、左には「銀閣慈照寺」の墨書きと「銀閣慈照禅寺」の朱印がおされるデザインです。
「佛法僧寶」は仏教における3つの宝を表した言葉です。佛は悟り開いた仏様・法は仏の教え・僧はその教えを広める僧を意味しています。
御朱印の中央に大きく墨書きされている「観音殿」とは、銀閣寺の代名詞になっている「観音殿銀閣」のことをさします。
観音殿銀閣は、木造2階建ての楼閣建築、屋根は宝形造り(ほうぎょうづくり)のこけら葺きで、その頂には銅製の鳳凰が置かれています。
一層目の「心空殿(しんくうでん)」は書院造りの住宅様式になっています。「錦鏡池(きんきょうち)」に東面して広縁があり、腰高障子窓が風情を感じます。
二層目は「潮音閣(ちょうおんかく)」と称され、禅宗様の仏殿となっています。北面以外の三面に花頭窓(かとうまど)が配された特徴的な造りです。
観音殿銀閣は銀閣寺の象徴的な建物ですが、実は造営当時には銀閣とは呼ばれておらず、江戸時代以後の通称だと考えられています。
なぜ観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのかについては諸説あります。当初は銀箔を張る予定だったが予算が足りない、もしくは義政が亡くなったためにできなかった、もともとは銀箔がほどこされていたがはがれてしまったなどともいわれていましたが、近年の調査では創建当初から銀箔が張られていなかったことがわかっています。現在では外壁の漆が月光に照らされて銀色に見えたためだという説が有力のようです。同じ室町幕府将軍の義満と義政が造営した別荘が同じように相国寺の塔頭となったことから、義満の金閣と対比されて銀閣と名付けられたのではないかとも考えられます。
銀閣寺では、通常の観音殿の御朱印のほかに、春と秋に限定の御朱印が授与された実績があります。ただし、毎年授与されるわけではなく、不定期のようですので、気になる人は銀閣寺の公式情報をチェックしてみてください。
以前に授与された春・秋限定の御朱印では、墨書き・朱印は通常の御朱印と同じで、御朱印紙が桜や紅葉と観音殿をデザインした美しいものでした。
また、春と秋に開催される特別拝観時には参加者のみがいただける特別御朱印もあります。こちらは桜やもみじと東求堂がデザインされた御朱印紙で、中央に「東求堂」の墨書きと「佛法僧寶」の朱印、右に「奉拝」「参拝日」の墨書きに「東山」の朱印、左に「銀閣慈照寺」の墨書きに「銀閣慈照禅寺」の朱印がおされるデザインです。
東求堂は、銀閣寺で観音殿銀閣と共に残った室町時代の建物で国宝に指定されています。本来は持仏堂で阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂として建てられました。内部は通常非公開ですが、春・秋の特別拝観時には見ることができます。現存最古の四畳半書院「同仁斎(どうじんさい)」は義政の書斎として作られたもので、書院造の原形とされています。
東求堂という名前は仏教の経典「六祖檀経(ろくそだんきょう)」にある「東方の人、念じて西方に生ずるを求む(東を向いて念仏を唱え、西方浄土への往生を願う)」を、同仁斎は中国・唐の文人である韓愈(かんゆ)の文章「聖人は一視して同仁(聖人はすべてを分け隔てなく平等に接する)」を出展としたもので、義政が禅僧・横川景三(おうせんけいさん)の案の中から選び、名付けたそうです。
銀閣寺は総門をくぐると直角に右へ曲がる参道となっています。両側は「銀閣寺垣(ぎんかくじがき)」と呼ばれる竹垣の上に5mもの高さにきれいに刈り込まれた生垣が作られていています。これは防御もかねて作られたそうですが、参道を歩いているとまるで現実世界から浄土の世界へいざなわれているような不思議な感覚に陥ります。生垣の上に見える細長い空を見ながら約50m歩くと今度は左へ曲がり、やっと拝観受付である中門に至ります。
小さなお庭を過ぎると、さえぎられていた視界が突然開けて右に観音殿銀閣、正面には「銀砂灘(ぎんしゃだん)」や「向月台(こうげつだい)」、その向こうに錦鏡池が見えます。銀閣寺垣からここまでのルートは、プロローグからクライマックスまでを一気に見せられた舞台のようです。俗世間から銀閣寺の世界へ引き込まれるのには十分すぎる演出でした。
真っ白な砂を富士山型にととのえた向月台とシャープな直線で波紋を表現した銀砂灘は、義政の時代にはなかったもので、江戸の大改修以降に作られたと考えられています。使用されている白砂は京都白川産のもので、月光を反射してキラキラとかがやくようにみえるそうで、現代アートのような銀砂灘と向月台をより一層魅力的にしています。
銀閣寺堂宇の東にある苔の緑と樹々が清々しいゆるやかな坂を上った先には展望台があり、そこからは銀閣寺の全景と京都市街を見渡すことができます。義政も見たであろう京の町を現代の私たちも見ることができる貴重な場所ですので、銀閣寺を訪れた際にはぜひ足をのばしてみてください。
京都は歴史の出来事が現代においてもとても身近に感じられる街で、応仁の乱で荒廃した町から逃げるように東山殿を造営した義政はいったい何を思っていたのか、銀閣寺の美しい景色を見ながらそんなことを考えられるのも京都ならではの魅力です。観音殿銀閣の様式美を楽しみ、美しい「観音殿」の御朱印を手に、数百年前にここにいた人たちに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
ライター: iroha
京都市在住で副業ライターとして活動してます。仕事の合間をぬって京歩き・御朱印集めをする中で、ますます京都が好きになっていき、京都検定2級にも合格しました。歴史ある御朱印や可愛くて素敵な御朱印などをたくさん紹介できればと思っています。
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