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【御朱印情報】山梨県「武田神社」の名将「武田信玄」の威風と勝運が込められた御朱印

山梨県甲府市にある「武田神社」は、戦国時代の名将「武田信玄」を御祭神として祀る神社です。信玄の風格ある御姿が切り絵で描かれた御朱印には、信玄の威風と勝運のご利益が込められているように感じました。

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戦国時代の名将「武田信玄」を祀る「武田神社」

山梨県甲府市、JR中央本線・甲府駅からバスで約8分、甲府市のほぼ中央にある「武田神社(たけだじんじゃ)」は、戦国時代の名将・武田信玄(たけだしんげん)を御祭神として祀る神社です。

 

武田信玄は、甲斐国(かいのくに、現在の山梨県)を治めた戦国大名で、戦の采配に優れ、領地の政治や人々の暮らしの整備にも力を尽くした人物として知られています。「川中島の戦い」をはじめとする幾多の合戦において卓越した軍略を発揮し、戦場で勇猛果敢に戦ったことから「甲斐の虎(かいのとら)」と称されました。

 

武田神社の社殿の建立は大正8年(1919年)と比較的新しいものの、その背景には長く積み重ねられた歴史と人々の熱い情熱がありました。
明治13年(1880年)の明治天皇の東山道巡幸がきっかけとなり、神社建立の動きがわき起こりましたが、費用の面で折り合いがつかず、建立には至りませんでした。その後、明治37年(1904年)の日露戦争による武神崇拝の風潮を機に、戦に長けた信玄を敬う声が再び高まります。
大正4年(1915年)に、大正天皇の即位を記念し信玄へ「従三位(じゅさんみ)」の位が追贈されると、神社創建に向けた動きに一気に拍車がかかりました。「郷土の英雄を神として祀りたい」という地域の人々の熱い想いが沸き上がり、県知事を総裁とする官民一体の「武田神社奉建会」が設立されます。そして大正8年、ついに念願の社殿が竣工されるにいたったのでした。

 

戦国武将として常に先を見据えて領国を豊かにし、戦い抜いた信玄を祀る武田神社のご利益はどれも非常に力強いものだといわれています。
なかでも最大のご利益として広く知られているのが「勝運」です。これは単なる運任せのものではなく、「人生そのものに勝つ」「自分自身の弱気や怠け心に打ち克つ」という、困難を乗り越えるための強靭な運気を意味します。また信玄の甲州金鋳造や治水工事などの功績から、商売繁盛や金運上昇の祈願も有名で、多くの政治家や実業家が参拝しています。また、民のために尽くした慈愛の心から、延命長寿や疫病退散など幅広いご利益もあるとされています。

武田神社_神橋
お堀の上に架けられた立派な朱塗りの神橋を渡ると、「武田神社」の扁額をかがけた立派な一の鳥居が見えてきます。
武田神社_二の鳥居_拝殿
甲府駅から約2㎞にわたってのびる道の延長上に、神橋、一の鳥居、参道、二の鳥居、拝殿、中門、本殿が一直線に並んでいます。

 

 

武田信玄の威風と勝運が込められた御朱印

武田神社では、基本の御朱印と武田信玄の立ち姿・座り姿が描かれた御朱印の3種類の御朱印が授与されています。

 

私の拝受した座り姿の御朱印は、見開きタイプで、右面は右上に「風林火山」と書かれた軍配の印と奉拝、左側に参拝日の墨書き、中央に社印と龍の印がおされ、左面に信玄の座り姿の切り絵が印刷されているデザインです。

武田神社_御朱印
堂々とした墨書きと座り姿の切り絵が武田信玄の名将としての威風を感じさせる武田神社の御朱印です。

 

右上に凛々しくおされた軍配の印「風林火山」は、武田軍の軍旗に記された「孫子の兵法」の一節「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の通称です。軍旗は「孫子の旗」「孫子四如の旗」と呼ばれ、戦場で将兵の士気を鼓舞するために軍団の先頭に掲げられました。その意味は、「好機には風のように素早く、待機時は林のように静かに、攻める時は火のように激しく、守る時は山のようにどっしりと構える」というものです。戦況に応じて「静」と「動」を柔軟に使い分ける戦術指針です。武田信玄といえば、宿敵・上杉謙信との「川中島の戦い」や、織田・徳川の連合軍を震撼させた「三方ヶ原の戦い」など、その戦術の高さは群を抜いていました。
しかし、信玄の本当の強さは武力だけではありません。武田家の軍法書「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」には、彼の哲学を象徴する「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という名言が遺されています。「立派な城を築くことよりも、信頼できる人材を集めて大切にすることこそが最大の防御であり、国を強くする」という深い人間愛にあふれた言葉です。

 

実際、信玄は生涯にわたって天守閣を持つような巨大な城を築かず、「躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)」を本拠地とし、家臣たちと苦楽を共にしました。躑躅ヶ崎館は永正16年(1519年)に信玄の父・武田信虎(たけだのぶとら)によって築かれ、信虎・信玄・勝頼(かつより)の武田氏3代・63年間にわたり政治・経済・文化の中心地として機能しました。館の周辺には家臣団の屋敷が立ち並び、活気あふれる甲府の城下町の原型が形作られましたが、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後、新たに「甲府城」が築かれたことで館はその役目を終えました。建物の多くは破却されましたが、境内を囲む美しい堀や堅牢な土塁、往時の面影を残す石垣や旧大手門跡など、境内には城跡巡りの醍醐味を満喫できる貴重な遺構が現在でも数多くあります。
武田神社は、この躑躅ヶ崎館跡に創建されました。古代からの神域ではなく、武田氏が国政を執った歴史の中心地が神社としてよみがえったことは、信玄をしのぶ人々の思いが形となったものといえます。

武田神社_堀・石垣
一の鳥居へ続く石段の両側にお堀と石垣がのこり、かつての要塞としての機能を伝えています。
武田神社_井戸
境内にある井戸は躑躅ヶ崎館が築かれた当時からのものとされ、信玄も使っていたといわれています。

 

御朱印におされる龍の印は、信玄が使用していたものと同じ図柄の「龍丸印」です。
また、信玄の座り姿の切り絵は切り絵作家・百鬼丸(ひゃっきまる)氏の作品で、「動かざること山の如し」を体現したかのような、どっしりと構えた風格ある信玄の御姿が描かれています。

 

信玄の豪快な生き様が表現された御朱印からは、「甲斐の虎」といわれた名将の人柄や不屈の哲学とともに、戦国時代の武士たちが確かにそこにいた息吹を肌で感じとることができました。

 

 

 

 

金運が上がるといわれる「三葉の松」

武田神社の見どころのひとつが、一の鳥居をくぐってすぐ左手にある「三葉の松(さんようのまつ)」です。高野山に信仰を寄せていた信玄が元亀4年(1573年)にこの世を去った際、高野山の松はその死を悲しみ、遥か遠い甲斐の国まで自らの種を飛来させ、この地に根付かせたとの言い伝えがあります。
松の葉は通常は2本もしくは5本ですが、三葉の松は名前の通り、1つの根元から3本の葉が伸びる非常に珍しい松です。さらにこの松は、落葉する際にまるで黄金のように美しい金色へと変化する特徴があります。松は古来より「延命長寿」の象徴として尊ばれてきましたが、三葉の松は落葉時に金色になることから、この金色の松の葉を身につけることで「金運が上がる」「招福必勝の御守りになる」といわれています。

武田神社_三葉の松
紅葉時に金色になる三葉の松の葉を財布にしのばせると金運がアップするといわれています。
武田神社_榎天神社
御神木「榎」に寄り添うように建ち、学問の神様・菅原道真を祀る末社「榎天神社(えのきてんじんじゃ)」には、合格や学業成就を祈願する人が参拝しています。

 

 

武田神社は、大正期に沸き起こった人々の情熱によって武田信玄が本拠とした場所に誕生しました。激動の戦国時代を確かに生き、民を愛した信玄が眠る場所だからこそ、境内に流れる空気には独特の力強さと、どこか温かい包容力が満ちているように感じました。武田神社へ足を運び、かつてこの地で「国を想い、人を愛した」信玄の勝運と威風が凝縮された御朱印をぜひいただいてみてください。

 

 

 

 

ペンネーム:木々野緑
日本の旧暦としきたりを日々研究するライター。御朱印との出会いは一期一会と感じていて、皆さまの良きご縁の一助となれるよう、御朱印にまつわる歴史や込められた思いをお伝えします。

 

 

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