
- 【御朱印帳】土佐手漉和紙「朝光」 小判 38ページ 楮紙 白米×淡黄蘗
- ¥11,880
岩手県平泉町にある「中尊寺」は、奥州藤原氏の繁栄を現代に伝える寺院で、平安時代後期の英雄・源義経や江戸時代前期に活躍した俳諧師・松尾芭蕉ゆかりの地でもあります。国宝建造物第1号の「金色堂」で、限定御朱印帳を購入した人だけに授与される見開き御朱印が話題になっています。
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岩手県平泉町にある「中尊寺(ちゅうそんじ)」は、天台宗の東北大本山として信仰をあつめている寺院です。
中尊寺がある平泉は岩手県の南西部に位置していていて、この地域は平安時代の末期頃に、奥州藤原氏により約100年の間、仏教の浄土思想をもとに平和に繁栄していたことで知られています。中尊寺は平安時代初期の嘉祥3年(850年)に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)により開山されたと伝わっていますが、事実上は12世紀の初頭に奥州藤原氏初代・藤原清衡(ふじわらのきよひら)が仏教による平和社会を願い、非戦の決意のもとに創建されたといわれています。
奥州藤原氏といえば、平安時代末期の源義経(みなもとのよしつね)とのエピソードが有名です。
16歳の源義経は、奥州藤原氏三代・藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の元、平泉で過ごしていました。治承4年(1180年)に兄・源頼朝(みなもとのよりとも)が平氏に対して挙兵をした際に、頼朝の元に駆けつけ、幾度もの戦で多くの功績をあげます。
ついには「壇ノ浦の戦い」で平氏を討ち滅ぼした義経でしたが、その後、頼朝と不仲になり対立してしまいます。追われる身となった義経は、文治元年(1185年)に平泉に逃げ延び、再び秀衡の元に身をよせます。
平氏の滅亡後、頼朝は東北で力を待つ秀衡に圧力をかけるようになっていました。この時、秀衡は頼朝との関係が更に悪化する懸念を抱きながらも、義経を庇護することを選び、あたたかく義経を迎え入れました。
それから2年後、秀衡は病を患い亡くなります。
すると頼朝はこれを好機とし、四代目・藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に対して強い圧力をかけ始めます。それに屈した泰衡は先代の遺志に背き、義経を自害に追い込みました。義経の最期は、住まいのあった平泉の高館の地で妻子と共に自害をしたと伝わっています。
しかしその後、頼朝は鎌倉から平泉に軍を送り、奥州藤原氏は滅ぼされ、庇護者を失った平泉は衰退しますが、中尊寺は藤原氏の繁栄を現代に伝える貴重な史跡として、現代まで受け継がれ、地域の人にあつく信仰され続けています。
国の特別史跡に指定されている中尊寺境内は、平成23年(2011年)に「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとしてユネスコの世界遺産にも登録されています。
中尊寺の境内には、たくさんの仏堂や神社があり、御朱印をいただける場所が数多くあります。
数ある仏堂の中で、もっとも有名なのが「金色堂(こんじきどう)」です。
中尊寺金色堂は、初代・清衡が天治元年(1124年)に自身の廟所として建立したもので、文字通り金色に輝く黄金の廟所は、藤原氏の繁栄を現代にも伝えています。金色堂には現在も清衡、基衡、秀衡の遺体と泰衡の首級がミイラ化した状態で安置されています。
金色堂の堂内に授与所があり、御朱印をいただくことができますが、金色堂でしか販売されていない御朱印帳があり、その御朱印帳を購入した人限定で見開きの御朱印を書き入れていただくことができます。
金色堂限定の御朱印帳は、表紙・裏表紙を開くと描かれている絵柄の全体像を見ることができる仕掛けがされています。
「金銅華鬘」とは、花輪を模した金色の装飾品で、かつては金色堂内の阿弥陀如来を装飾していたもので、国宝に指定されています。現在は讃衡蔵に保管・展示されている、金色堂ゆかりの文化財のひとつです。
金色堂は、令和6年(2024年)に建立から900年の節目の年を迎え、記念行事などが行われていました。
金色堂以外にも御朱印をいただける場所がたくさんありますが、その中で「弁慶堂(べんけいどう)」をご紹介します。
弁慶堂は中尊寺入口から本堂や金色堂などの諸堂が立ち並ぶエリアに向かう月見坂の途中にあり、江戸時代の文政9年(1826年)に再建された細かい彫刻が見ものの立派なお堂です。元々は火伏の神として勝軍地蔵菩薩(しょうぐんじぞうぼさつ)=愛宕権現(あたごごんげん)を祀り愛宕堂という名称でしたが、源義経像と武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)像が安置されたことにより弁慶堂と呼ばれるようになったそうです。
言わずと知れた武蔵坊弁慶は、元は比叡山の僧で武術を好み、五条の大橋で義経と出会って以来、郎党として彼に最後まで仕えたとされます。義経に忠義を尽くした怪力無双の荒法師として名高く、怪力や豪傑の代名詞として現代にも語り継がれています。
平泉の高館に追手が迫った際に、義経のために最後まで奮戦し、主君を守って立ったまま亡くなったといわれる「弁慶の立往生」のエピソードが知られていて、弁慶堂に安置されている像は立往生した際の悲墳の姿を表現しているとのことです。
弁慶堂の御朱印は、見開きタイプで、弁慶堂の墨書きや勝軍地蔵菩薩の甲冑を身に着け馬にまたがる御影などが描かれたデザイン性豊かなものです。
中尊寺は、江戸時代前期に活躍した俳諧師・松尾芭蕉(まつおばしょう)ゆかりの地としても知られています。
日本の古典における紀行作品の代表的存在であり、芭蕉の著作中で最も著名な作品である「おくのほそ道」によると、門人の河合曾良(かわいそら)を伴って江戸を発ち、奥州・北陸道を巡った芭蕉は、平泉の地を訪れ、江戸へと折り返していったとされています。
平泉で最初に訪れたのが、義経の最期の地となった高館で、芭蕉の代表作となる句をよみます。
「夏草や 兵どもが 夢の跡 (なつくさや つわものどもが ゆめのあと)」
高館のあと、芭蕉は中尊寺に向かいます。
訪れたのは旧暦の5月の頃(現在の6月頃)の梅雨時期で、雨に濡れ輝く金色堂をみて句をよみました。
「五月雨の降り残してや光堂 (さみだれの ふりのこしてや ひかりどう)」
芭蕉は句をよむ前に、涙を流したと伝わっています。戦により散った多くの命、奥州藤原氏の滅亡、壮絶な死を遂げた義経に想いを馳せ、後世にものこる名句が平泉の地でうまれました。
中尊寺を開いたとされる円仁は、東北の地に数多くの寺院を開山・再興したといわれていて、その中でも特に聖地として名高い宮城県松島町の瑞巌寺(ずいがんじ)、山形県山形市の立石寺(りっしゃくじ)、岩手県平泉町の毛越寺(もうつうじ)と、中尊寺の四寺を芭蕉も巡拝したと伝わっています。
みちのく古寺巡礼をテーマに、円仁と芭蕉のゆかりの4寺を巡礼することが「四寺廻廊(しじかいろう)」と名付けられ、いろいろな企画やイベントが行われています。
四寺廻廊専用の御朱印帳があり、4寺をすべて巡ると最後に訪れた寺院で、住職の色紙をいただくことができます。
松尾芭蕉のたどった道を想像しながら古寺を巡礼し、東北の文化と自然を堪能するのもおすすめです。
中尊寺は、東北地域でもっとも有名な寺院のひとつで、熱心な信者さんのみならず、歴史好きの人や外国人観光客などたくさんの参拝者が訪れています。境内にはたくさんの場所で多種の御朱印をいただくことができ、特に金色堂では限定の御朱印帳を購入した人だけがいただける御朱印が授与されているなど、御朱印巡り好きの人にはたまらない寺院でもありますので、時間に余裕をもってじっくりと参拝・拝観してみてください。
ライター: 白幸
写真を撮るのが大好きです。10年以上前に追善供養のために書いた写経をお寺に納め御朱印をいただいたことがきっかけで、御朱印を集めるようになりました。現在は御城印、武将印、御酒印などにも興味の範囲が広がっています。御朱印の毛筆で書かれる文字の美しさにいつも癒されています。
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