
- 【御朱印帳】土佐手漉和紙「朝光」 小判 38ページ 楮紙 白米×淡黄蘗
- ¥11,880
鹿児島県薩摩川内市にある「新田神社」は、日本神話に登場する主祭神・瓊瓊杵尊の御陵をいただき、神話・歴史・自然が調和する薩摩国一の宮として信仰をあつめる神社です。「薩摩国一之宮」の朱印がおされる伝統的なデザインの御朱印のほか、季節や祭事にあわせたアート御朱印も授与されています。
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鹿児島県薩摩川内市にある「新田神社(にったじんじゃ)」は、指宿市にある「枚聞神社(ひらききじんじゃ)」と並んで薩摩国(さつまのくに、現在の鹿児島県)の一の宮に数えられ、古くから薩摩国を代表する格式ある神社として広く崇敬をあつめてきました。
※枚聞神社に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【御朱印情報】鹿児島県「枚聞神社」の「薩摩国一宮」の風格を感じられる御朱印
新田神社の境内は市街地の近くにありながら、豊かな自然に包まれた静かな環境です。神社の入口から続く長い石段をのぼっていくと、木立の間からひっそりと社殿が姿を現します。
新田神社は、主祭神に天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を祀る神社で、創建については奈良時代初期の神亀2年(725年)とする説もありますが、確かな記録は残っておらず、詳しい創建年代は不明です。
日本神話に、天照大神(あまてらすおおみかみ)が孫にあたる瓊瓊杵尊に「地上の世界を治めなさい」と命じ、あわせて稲穂を授け、お米を作るようにと告げた「斎庭稲穂の神勅(ゆにわのいなほのしんちょく)」という重要な場面があります。
瓊瓊杵尊は多くの神々を伴い、現在の鹿児島県霧島市にある高千穂峰(たかちほのみね)に降り立ちました。これが「天孫降臨(てんそんこうりん)」として知られる出来事です。その後、現在の鹿児島県南さつま市にあたる笠狭宮(かささのみや)へと移り、山の神の娘である木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と結ばれたと伝えられています。さらに海路をたどって北上して、現在の薩摩川内市に至りました。
川内に到着した瓊瓊杵尊は、「千台(せんのうてな)」と呼ばれる高殿を築いてこの地に住んだとされており、地名の「川内(せんだい)」はこの「千台」に由来するという説もあります。やがて瓊瓊杵尊はこの地で亡くなり、御陵として「可愛山陵(えのみささぎ)」が築かれました。そして、その御霊をお祀りするようになったのが、新田神社のはじまりといわれています。
創建当初は社殿がなく、現在の新田神社が鎮座する山そのものが信仰の対象だったとも伝わっています。「新田神社」の名前が古文書ではじめてでてくるのは平安時代で、この頃には薩摩国の守り神として朝廷からも深い信仰をうけていたとされています。
また、島津氏が薩摩国を治めるようになってからは、歴代当主の崇敬があつく、およそ400年前の慶長年間には16代・島津義久(しまづよしひさ)により、現在の社殿のもととなるものが造られました。
このような長く由緒正しき歴史を経て、今も多くの人々が参拝に訪れ、地域に根ざした神社として親しまれています。
新田神社の御朱印は、「奉拝」「参拝日付」の墨書きに、「薩摩国一之宮」「新田神社」「神亀山」の朱印がおされるデザインです。御朱印の受付は社務所ではなく、社殿横のおまもり授与所で行われており、初穂料500円で御朱印帳に直書きしていただきました。
御朱印の中央におされた神社印でも強調されている「新田」の神社名は、瓊瓊杵尊が川内の地に川内川から水を引いて新しく田んぼをつくったという意味が込められているという説もあります。
また、左下に朱印の「神亀山(しんきさん)」とは、新田神社が鎮座する小高い山のことを指します。神亀山は、遠くから見ると亀の形に見えることから、その名前がつけられたといわれています。山の麓にある亀山小学校は、校名が神亀山に由来しており、神亀山が地域の人々に親しまれていることがうかがえます。
参拝後は、社務所の脇を通って奥に進み、社殿の背後にある瓊瓊杵尊の御霊を祀る御陵「可愛山陵」を訪れました。
可愛山陵は、日本神話に登場する神々の御陵とされる三ヶ所を意味する「神代三陵(かみよさんりょう)」のひとつに数えられています。可愛山陵の他に、瓊瓊杵尊の子である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の御陵とされる現在の霧島市にある「高屋山陵(たかやさんりょう)」、初代・神武天皇(じんむてんのう)の父神として知られる鸕鷀草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)の御霊とされる現在の鹿屋市にある「吾平山陵(あいらさんりょう)」があり、いずれも鹿児島県内に所在しています。
これらの陵は、明治政府によって正式に御陵として定められ、現在は宮内庁により管理されています。
日本神話に登場する伝説の地に鎮座し、神の御陵をたたえる聖地であることなどが、新田神社が薩摩国でもっとも社格が高い一の宮として長く信仰されている由縁となっており、御朱印の篆書体の朱印「薩摩国一之宮」がそれを象徴しています。
新田神社の社殿へと続く石段の途中には、樹齢650〜800年と推定される大きなクスノキがあり、御神木とされています。
この木には、地上約2mの位置に大穴牟遅神(おおあなむちのかみ=大国主神の若い頃の名)の木像が彫られていると伝わっていますが、風化が進み、現在はその姿をはっきりと確認することはできません。この木像は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで討死した島津家の家老が、自ら彫って奉納したものとされています。
明治から昭和にかけて活躍した歌人・与謝野鉄幹(よさのてっかん)、晶子(あきこ)夫妻が昭和4年(1929年)に新田神社を訪れた際、このクスノキをみて、鉄幹が「可愛の山の楠の大樹の幹半ば うつろとなれど広き蔭かな」という歌を詠みました。
令和6年(2024年)の夏に、クスノキとこの歌がデザインされた限定御朱印が授与されました。
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新田神社では、季節や祭事にあわせて限定のアート御朱印も授与されていますので、参拝された際にはどのような御朱印が授与されているかぜひチェックしてみてください。
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新田神社は、「安産守護」のご利益を求めて参拝する人も多いです。
社殿近くに「子抱き狛犬」が安置されていて、神社の境内に狛犬が置かれているのは珍しくありませんが、この狛犬は小さな子犬を抱いているのが特徴です。古くから安産や子授けにご利益があるとされており、狛犬の頭をなでて祈願する人の姿も見られます。
薩摩国の歴史や神話の面影を今に伝える新田神社は、市街地の近くにありながらも、静けさに包まれた神聖な空間です。瓊瓊杵尊を祀り、その御陵とされる可愛山陵を背後にいただく境内には、神代の伝承や島津家とのつながりを感じさせる見どころが点在しています。「薩摩国一之宮」の朱印がおされる由緒正しき御朱印をいただいたあとは、自然に包まれた境内を歩き、神社や地域の歴史、神話に想いを馳せながら、日常から少し離れた静かなひとときをぜひ過ごしてみてください。
※全国の一の宮に関して、以下リンクの記事で紹介されていますので、こちらもぜひご覧ください。
【御朱印情報】全国の有名な「一の宮」でいただける御朱印情報まとめ
ライター:nakamuraya
旅好きな観光ガイド・WEBライター。書くことと話すこと、両方の言葉の力で、日本の魅力を国内外の人々に伝える活動をしています。初めての一人旅で京都を訪れて以来、神社仏閣に興味を持ち、御朱印の奥深さにも惹かれました。日本の歴史や文化に深く関心を抱き、伝統や美しさを巡る旅を楽しんでいます。
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福岡県北九州市八幡東区にある「豊山八幡神社」は、1400年以上の歴史を誇る古社で、日本屈指の鉄の町として有名な「八幡」の地名発祥の地でもあります。鉄の町ならではの「鉄のしめ縄」をデザインした御朱印など、デザイン性豊かな複数種類の御朱印が授与されていました。
山口県下関市にある「赤間神宮」は、平安時代末期の壇ノ浦の戦いの際に8歳で亡くなった安徳天皇を祀る神社です。安徳天皇を象徴する、天皇家ゆかりの菊の御紋が印象的な御朱印をいただくことができます。
大阪府大阪市中央区にある「難波神社」は、1600年以上の長い歴史があると伝わり、「あやめ祭」や「氷室祭」などの神事が有名です。神社にゆかりが深い「菖蒲」の印が印象的な御朱印をいただくことができます。
福島県会津若松市にある「飯盛山」は市街を一望できる小高い山で、白虎隊自刃の地として知られ、多くの人が訪れます。その悲劇の物語を現代に伝える、白虎隊の個性豊かな複数種類の御朱印をいただくことができます。