- 【御朱印帳】土佐手漉和紙「朝光」 小判 38ページ 楮紙 白米×淡黄蘗
- ¥11,880
高知県高知市にある「山内神社」は、江戸時代に土佐藩の礎を築いた歴代土佐藩主を祀る神社です。御朱印には、高知城下町ゆかりの地名が記され、整然としたデザインから土佐藩主・山内家の功績や歴史を体感することができます。
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高知県高知市の中心市街地、高知城の南側を流れる鏡川(かがみがわ)の北岸にある「山内神社(やまうちじんじゃ)」は、土佐藩(とさはん、げんざいの高知県)の初代藩主・山内一豊(やまうちかずとよ)と、その正室である千代(ちよ)、および歴代土佐藩主を祀る神社です。
江戸時代の文化3年(1806年)に、土佐藩10代藩主・山内豊策(やまうちとよかず)によって、土佐藩初代藩主・山内一豊とその夫人である千代、2代藩主・山内忠義(やまうちただよし)を祀るために高知城内に「藤並神社(ふじなみじんじゃ)」が建てられました。
当時、各地の藩で初代藩主を神として祀る動きが広がっていたことにならったもので、創建後しばらく経った天保6年(1835年)には、「藤並大明神(ふじなみだいみょうじん)」という神号が贈られています。
※高知城に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【御朱印情報】高知県「高知城」の土佐藩主・山内家の歴史・功績や建造物の特徴を読み解く御城印
明治時代に入った明治4年(1871年)に、土佐藩最後の藩主であり、初代高知藩知事でもあった山内豊範(やまうちとよのり)が、藤並神社の御旅所であった場所に新たに山内神社を創建しました。山内神社には3代藩主・山内忠豊(やまうちただとよ)から14代藩主・山内豊惇(やまうちとよあつ)までの霊が祀られました。翌年には高知県に引き継がれ、村社として位置づけられました。
昭和7年(1933年)には、明治維新で大きな功績を残した15代藩主・山内豊信(やまうちとよのぶ)と16代藩主・山内豊範(やまうちとよのり)を特に顕彰するため、新しい神社を造ることが決まりました。これにより、山内神社に祀られていた歴代藩主の霊は藤並神社へ移され、新社殿が建設されました。この神社は昭和10年(1935年)に完成し、「別格官幣社山内神社」として創建されました。
しかし、昭和20年(1945年)の高知大空襲で両神社は焼失し、その後しばらくは仮の社殿で祭祀が行われていましたが、昭和45年(1970年)に社殿が再建され、藤並神社が合祀されたことで、山内神社は土佐藩歴代すべての藩主を祀る神社となりました。さらに平成2年(1990年)に、高知城内にあった熊野神社・春日神社・住吉神社の3社も境内に移され、現在の山内神社の姿が整えられ、現代に受け継がれています。


山内神社では、社殿に向かって左側の社務所で御朱印をいただくことができます。
「神印」「社名印」の朱印に、「高知市鷹匠町鎮座」のスタンプ、「山内神社」「参拝日付」の墨書きが入るデザインで、持参した御朱印帳に直書きしていただき、初穂料は300円でした。

山内神社に最初に祀られた土佐藩初代藩主・山内一豊と妻・千代は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍したおしどり夫婦として知られています。
一豊は尾張国の出身で、織田信長(おだのぶなが)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に仕え、数々の戦功を重ねました。天下分け目の関ヶ原の戦いでは東軍として功績を挙げ、その恩賞として土佐一国を与えられ、土佐藩初代藩主となりました。
千代は、知恵と先見性に富んだ女性として語り継がれています。若き日の一豊が出世の機会を得るきっかけとなったとされる「内助の功」の逸話では、千代が自らの持参金で名馬を購入し、夫に与えたことが有名です。
土佐入国後も夫婦は藩政の基礎固めに尽力し、高知城下町の整備や家臣団の統制を進めました。山内一豊と千代は、夫婦一体となって家を興し、土佐藩300年の礎を築いた存在として、現代でも高知の人々に敬われています。
御朱印に記されている山内神社が鎮座する「鷹匠町(たかじょうちょう)」とは、江戸時代に鷹の飼育・調教を仕事とする鷹匠が住んでいたことが由来で、高知城下町の名残を感じられる名前です。現在の山内神社の南側には鏡川が流れていますが、その北側には江戸時代にはいくつものの堀があったそうで、文久元年(1861)までにすべてが埋め立てられ、藩主・山内家の敷地となり、山内神社もその一画に建造されました。
私が今回いただいた御朱印は、株式会社四国遍路が制作・販売しているオーダーメイド納経帳・御朱印帳「千年帳」に書いていただきました。
本紙は、高知県で伝統的に受け継がれている「土佐和紙」の中でも、現地で栽培・収穫された楮(こうぞ)という植物原料を使い、伝統的な製法で職人さんが1枚1枚手漉きした「土佐手漉和紙」です。社務所の係の人が丁寧に書き入れてくださった墨書きは、整然とした書体で、濃い墨がたっぷり染み込んで浮かび上がっているように見え、墨の染み込みがよい楮紙が墨をしっかりと受け止めているからこその仕上がりだと思います。
高知県で作られた特別な和紙に、高知県の礎を築いた歴代土佐藩主を祀る神社の御朱印をいただき、いつにも増して御朱印に特別感が感じられ、参拝の思い出とともに大切にしていきたい気持ちを強く持ちました。
※千年帳の本紙に関しては、以下リンクで詳しく紹介されていますので、ご参照ください。
山内神社の近くには、「旧山内家下屋敷長屋(きゅうやまうちけしもやしきながや)」が残されています。
幕末の元治元年(1866年)に土佐藩15代藩主・山内豊信の下屋敷(南御屋敷)として、侍屋敷7軒を召し上げて建設された武家屋敷内に建てられた長屋で、屋敷の警護に就く多数の足軽が宿泊するために建設されたものだそうです。
下屋敷(別邸)は明治時代に拡張され、山内家の本邸として使用されていましたが、戦後に売却されて跡地はホテル三翠園になりました。
現在は長屋のほか、門と物見亭が現存しています。長屋はホテル三翠園の外構の一部として保存されたのち、昭和53年(1978年)に高知市に譲渡、昭和54年(1979年)には国の重要文化財に指定、旧山内家下屋敷長屋展示館として一般公開されています。

現存する物見亭は、幕末の慶応3年(1867年)に、当時倒幕に向けて奔走していた西郷隆盛(さいごうたかもり)が薩摩藩・島津久光(しまづひさみつ)の使者として、隠居して山内容堂(やまうちようどう)と名乗っていた山内豊信に会見した場所として有名です。隆盛は容堂に「上京して国事に奔走するように」と献言し、時代が転換していくポイントとなった重要な場所でもあるのです。
山内容堂は、若くして藩主となり、財政難に苦しむ土佐藩の立て直しに取り組みました。質素倹約を徹底しつつ、下士層の人材登用を進め、幕末に活躍する土佐藩出身の坂本龍馬(さかもとりょうま)や後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らが活躍する土壌を整えたとされています。また、藩校改革や殖産興業にも力を注ぎ、近代的な藩政運営を志向しました。政治面では公武合体を基本とし、急進的な倒幕論には慎重な姿勢を示しましたが、時代の流れを見極め、大政奉還の実現に重要な役割を果たしました。明治維新後は新政府に参与し、華族として侯爵に列せられました。酒や和歌、漢詩を愛した文化人としても知られ、山内容堂は政治と文化の両面で幕末土佐を代表する人物と評価され、幕末の四賢侯の一人とされています。
山内神社を参拝の際には、旧山内家下屋敷長屋にも立ち寄って、山内家・土佐藩の歴史を体感してみてください。

山内神社は、江戸時代の土佐藩の発展の歴史を現代に伝える貴重な遺構です。整然としたデザインの御朱印からは、山内家の大きな功績や歴史の重み、現代の静謐な神社の雰囲気が伝わってくるかのようです。高知市中心市街地を訪れた際には、山内神社にぜひ立ち寄って、山内家・土佐藩の歴史を体感するとともに、山内家とご縁を結ぶ御朱印をぜひいただいてみてください。
※高知県高知市で御朱印が人気の寺社が、以下リンクの記事でまとめて紹介されていますので、こちらもぜひご覧ください。
ライター:千年帳編集部
オーダーメイド納経帳・御朱印帳「千年帳」の商品詳細情報や魅力、こだわりなどを発信しています。千年帳を携えて寺社を参拝し、実際に拝受した御朱印の情報など、御朱印巡り好きの人のためのお役立ち情報もお届けします。
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