四国の職人が心に響く手仕事で仕上げる
オーダーメイド納経帳・御朱印帳「千年帳」

「千年帳」オンラインショップ
facebook twitter instagram TicTok YouTube

【御朱印情報】奈良県「飛鳥寺」の日本最古の仏像「飛鳥大仏」とご縁を結ぶ御朱印

奈良県明日香村にある「飛鳥寺」は、飛鳥時代創建の長い歴史があり、日本の仏教の礎となった寺院として知られています。日本最古の仏像といわれる「飛鳥大仏」と記される御朱印のほか、飛鳥寺で仏教を学んだとされる聖徳太子とご縁を結ぶ御朱印などをいただくことができます。

スポンサーリンク



 

 

日本の仏教の礎となった「飛鳥寺」

奈良県明日香村にある「飛鳥寺(あすかでら)」は、飛鳥時代の推古天皇4年(596年)に当時の朝廷の大臣として活躍していた蘇我馬子(そがのうまこ)が、日本初の本格的な仏教寺院・蘇我氏の氏寺として創建し、現在は真言宗豊山派に属する古寺です。

 

創建当初は、現在の敷地面積の約20倍の広さの大寺院で、朝鮮半島の百済(くだら)や高句麗(こうくり)からの僧を招き、当時の日本仏教教学の中心地となりました。のちの政治家として活躍する聖徳太子(しょうとくたいし)も若き日に飛鳥寺で仏教を学び、仏教理解と政治思想を深めたと伝わっています。建築物の側面から見ても、飛鳥寺が日本の寺院建築の基本となり、発展していったといわれています。

 

和銅3年(710年)に都が平城京に移ると、寺の一部が都へ移転して元興寺(がんごうじ)となり、残った伽藍は本元興寺(もとがんこうじ)や飛鳥寺(あすかでら)と呼ばれるようになりました。
度重なる火災で衰退しましたが、規模を縮小し江戸時代に再建され現在に至ります。

 

飛鳥寺は、日本における仏教の普及・発展の礎となった寺院として現代まで大切に受け継がれ、多くの参拝者・観光客が訪れています。

飛鳥寺_飛鳥大仏石碑
飛鳥寺の門前にある「飛鳥大佛」と刻まれた石碑は、創建当時の礎石を利用しているそうです。
飛鳥寺_本堂
本堂の前にも創建時の堂宇の礎石がのこされていて、長い歴史を物語っています。

 

 

日本最古の仏像といわれる「飛鳥大仏」と記される御朱印

飛鳥寺では、境内にある納経所で複数種類の御朱印が授与されています。

 

基本の御朱印は、右から「新西国三十三所第九番札所」「釈迦如来の梵字」「飛鳥寺」の朱印に、「奉拝」「参拝日時」「飛鳥大仏」「飛鳥寺」が墨書きされるデザインで、持参した御朱印帳に丁寧に直書きしていただけ、志納料は500円でした。

飛鳥寺_御朱印
1画目の横線が太く強調される特徴的な書体の飛鳥寺の御朱印です。

 

右上に朱印がおされる「新西国三十三箇所」とは、一般には「新西国霊場」と呼ばれる霊場巡礼のことです。
昭和7年(1932年)に大阪時々新報、京都日日新聞、神戸新聞を母体とした三都合同新聞社が、近畿2府4県(大阪府・和歌山県・奈良県・京都府・滋賀県・兵庫県)の寺院の中から、日本の仏教の始祖である聖徳太子の「和の道」と、平和な世界建設を基調に、信仰と健全な探勝行楽を兼ねる巡拝コースとして、一般読者の意見を中心に33ヶ寺を選定したものです。その後、戦争により一時荒廃しましたが、戦後に霊場から辞退した寺院に変わって新たに2ヶ寺を加え、さらに5ヶ寺を客番として迎え、新西国三十八霊場として再出発し、現代に受け継がれています。
飛鳥寺は新西国霊場の9番札所で、本堂に祀られている釈迦如来と、思惟殿(しゆいでん)に祀られている聖観音菩薩を参拝した証と拝受します。

飛鳥寺_思惟殿
聖観音菩薩が祀られている堂宇の名前に含まれる「思惟」とは、仏教の様々な思想や修行のあり方を心に浮かべ深く考えることを意味します。

 

中央に梵字の朱印がおされる釈迦如来は、飛鳥寺の本堂に祀られている御本尊であり、墨書きで示されるように通称「飛鳥大仏(あすかだいぶつ)」と呼ばれています。
推古天皇17年(605年)頃に制作されたと考えられている、現存する日本最古の仏像をして知られています。火災や風化で補修はされていますが、当初祀られた場所から一度も動くことなく、1400年以上にわたり信仰の源として受け継がれ、良縁や学業成就、商売繁盛などのご利益があるとされています。

飛鳥寺_飛鳥大仏
飛鳥大仏の面長で口元のみ穏やかに微笑を浮かべる表情(アルカイックスマイル)は、飛鳥時代の作風を明確に反映しているとされています。

 

この御朱印は、私がオーダーメイドの注文をした御朱印帳「千年帳」に書いていただきました。本紙は、職人さんが1枚1枚手漉きした高品質の土佐手漉和紙の中でも「楮紙(こうぞし)」という、和紙らしい表面感があり、あたたかみのある白色が特徴のものを選択しています。
素早い筆運びで書き入れられた墨書きは、にじみとかすれが絶妙で躍動的に感じます。墨の染み込みがとても良い土佐手漉和紙ならではの仕上がりだと思います。優雅で安心感のある書体は、私たちを穏やかに包み込む釈迦如来の優しさが表現されているように感じました。
※千年帳の本紙に関しては、以下リンクをご参照ください。

 

千年帳とは:本紙

 

 

飛鳥寺で仏教を学んだ「聖徳太子」とご縁を結ぶ御朱印

基本の御朱印のほかに、聖徳太子御霊跡の御朱印も授与されていたので、こちらは書き置きタイプで拝受しました。
「聖徳太子御霊跡」「右手」「飛鳥寺」の朱印に、「鳥形山」「参拝日」「止利仏師丈六釈迦」「飛鳥寺」と墨書きされるデザインの御朱印です。

飛鳥寺_御朱印_聖徳太子御霊跡
手の形の朱印が特徴的な聖徳太子御霊跡11番札所の御朱印です。

 

右上に朱印がおされる「聖徳太子御霊跡」とは、近畿圏にある聖徳太子ゆかりの28ヶ寺から構成される霊場巡礼のことで、飛鳥寺が11番札所であることを表しています。飛鳥寺は、若き日の聖徳太子が仏教を学んだ寺院とされていて、日本における仏教の普及・発展に大きな役割を果たしました。

 

中央の墨書きの「止利仏師丈六釈迦(とりぶっしじょうろくしゃか) 」とは、飛鳥寺の御本尊・釈迦如来(飛鳥大仏)が飛鳥時代を代表する仏師・止利仏師が「丈六(じょうろく)」という仏像の標準寸法(釈迦の身長に由来する1丈6尺(約4.85m))に基づいて制作した大きな坐像であることを示しています。

 

中央の右手の朱印は、飛鳥大仏の右手「施無畏印(せむいいん)」を表し、人々の不安を取り除くという意味があります。聖徳太子は釈迦如来の再来として信仰されたため、聖徳太子とのご縁を表しているともいえます。

 

この御朱印は、飛鳥寺が日本仏教の礎となった歴史や、聖徳太子と釈迦如来の力が一体となりご加護をもたらしてくれることを象徴しているといえるでしょう。

 

※同じ明日香村にあり聖徳太子の生誕地に創建されたとされる橘寺に関して、以下リンクの記事でご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

 

【御朱印情報】奈良県「橘寺」の「聖徳太子」の生誕地であることが記される御朱印

 

 

 

 

飛鳥時代の政変の史跡「蘇我入鹿の首塚」

飛鳥寺を訪れた際にぜひ立ち寄っていただきたのが、飛鳥寺から西に約500mの場所にある「蘇我入鹿(そがのいるか)の首塚」です。
蘇我入鹿は飛鳥寺の創建者である蘇我馬子の孫で、第35代・皇極天皇(こうぎょくてんのう)の下で大臣として権勢をふるいましたが、皇位継承や政治方針において対立関係にあった中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の第38代・天智天皇(てんじてんのう))・中臣鎌足(なかとみのかまたり)らによる「乙巳の変(いっしのへん)」で討たれ、天皇中心の中央集権国家を目指す「大化の改新(たいかのかいしん)」へとつながっていきます。
飛鳥寺と合わせて蘇我入鹿の首塚を訪れることで、飛鳥時代の日本の大きな転換点に関する理解が深まると思います。

飛鳥寺_蘇我入鹿の首塚
飛鳥寺の創建に深く関わった蘇我氏にまつわる歴史浪漫を感じることができる「蘇我入鹿の首塚」です。

 

 

飛鳥寺は、日本の仏教の礎となり重要な役割を果たした古寺です。特徴的な墨書き・朱印の御朱印には、飛鳥寺の歴史や貴重な文化財、聖徳太子とのご縁が表現されていますので、ぜひ拝受して、日本仏教への理解を深め、古代の信仰を体感してみてください。

 

 

 

 

ライター:竹内友章
知多半島のお寺が好きで、知多四国霊場を中心にいろいろな霊場を巡礼し、観光やご当地グルメ(特にラーメン)を楽しんでいます。御朱印集めも趣味で、知多半島のお寺の御朱印はもちろん、全国各地の御朱印をもらいに巡り、アート御朱印などは取り寄せたりもしています。

 

 

スポンサーリンク



都道府県別御朱印情報を探す

御朱印情報マップ

関連記事

千年帳バナー 千年帳バナー