四国の職人が心に響く手仕事で仕上げる
オーダーメイド納経帳・御朱印帳「千年帳」

「千年帳」オンラインショップ
facebook twitter instagram TicTok YouTube

【御朱印情報】兵庫県「湊川神社」の楠木正成の忠義が表現された御朱印

兵庫県神戸市中央区にある「湊川神社」は、明治時代に創建された兵庫県内屈指の参拝者数をほこる神社です。御祭神は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将・楠木正成で、天皇に忠義を尽くした歴史が御朱印にも表現されています。

スポンサーリンク



 

 

忠義の武将・楠木正成を祀る「湊川神社」

兵庫県神戸市中央区にある「湊川神社(みなとがわじんじゃ)」は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将・楠木正成(くすのきまさしげ)を御祭神として祀っている神社です。

 

楠木正成は、元弘の乱で後醍醐天皇を奉じ、鎌倉幕府打倒に貢献しました。建武の新政下では、最高政務機関である記録所の寄人に任じられ、足利尊氏(あしかがたかうじ)らとともに天皇を助けましたが、北朝と南朝の争いの中の湊川の戦いで足利尊氏の軍に敗れて自害しました。

 

江戸時代に入って、水戸藩二代藩主・徳川光圀(とくがわみつくに)が「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した石碑を建立するなど、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇められ、幕末には維新志士らによって祭祀されるなど、神格化され崇敬をあつめるようになります。
慶応3年(1867年)に尾張藩主・徳川慶勝(とくがわよしかつ)により楠社創立の建白がなされ、1868年(明治元年)にそれを受けた明治天皇が楠木正成の忠義を後世に伝えるため神社を創建するよう命じ、1869年(明治2年)に墓所・殉節地を含む土地を境内地と定め、1872年(明治5年)に湊川神社が創建されました。

 

境内には、楠木正成にゆかりのあるものを納めた宝物殿や能楽堂である神能殿、結婚式などの行事を行う楠公会館などがあり、兵庫県内の神社の事務を管轄する兵庫県神社庁の事務所も設置されているなど、兵庫県内屈指の認知度を誇る神社です。地元では親しみを込めて「楠公さん(なんこうさん)」と呼ばれ、安産祈願・お宮参り・七五三・厄除など家族の人生の節目に訪れる祈祷者数は兵庫県内有数で、正月の初詣には県内外から100万人をこえる参拝者が訪れているそうです。

湊川神社_神門
JR神戸駅からすぐの場所に広大な境内を誇る湊川神社があります。
湊川神社_楠木正成一代記
参道脇に楠木正成の生涯を説明するパネルが設置されていました。

 

 

忠義の象徴「菊水紋」の御朱印

湊川神社では、複数種類の御朱印が授与されており、本殿近くの社務所授与所にて御朱印申込用紙があるので、希望する御朱印を記入して御朱印帳を預けて御朱印をいただきます。
私が今回いただいた御本社の御朱印は、「社紋」「社名」の朱印に、「奉拝」「社名」「参拝日付」の墨書きが入る、伝統的でシンプルなデザインで、初穂料は500円でした。

湊川神社_御朱印_御本社
神職さんが丁寧に書き入れてくださった湊川神社御本社の御朱印です。

 

湊川神社御本社の御朱印で注目すべきは、中央の社紋の朱印です。

 

この紋は「菊水紋(きくすいもん)」と呼ばれ、菊の花と流水が組み合わさった図柄です。
楠木正成が仕えた後醍醐天皇が、忠義に厚い楠木正成に感謝の気持ちを込めて天皇家の紋章の菊紋を下賜しましたが、楠木正成は畏れ多いとして、菊の花が川の流れにゆっくり身を任せている様子を表現した菊水紋を使うようになったといわれています。楠木正成は後醍醐天皇から菊を浮かべた酒杯を下賜されたという故事ものこっています。

 

旧日本海軍では、天皇に対して絶対の忠誠心と武勇を誓った楠木正成を敬い、その精神性を「楠公精神」として教育していました。海軍士官が持つ軍刀に菊水紋を施した「菊水刀」が制作され、海軍士官用軍刀として使用されていたことなどから、明治時代以降、天皇への忠義を象徴する紋として扱われていたことがわかります。

 

 

 

 

楠木正成殉節地と楠公墓所

湊川神社の境内には、現在も楠木正成に関係する遺構がのこされています。

 

本殿の向かって左奥側には楠木正成殉節地があります。

湊川神社_楠木正成殉節地
楠木正成殉節地へは御本殿の向かって左手の絵馬やおみくじがかかっている奥の場所へ進みます。
湊川神社_楠木正成殉節地
明るく広々とした境内の奥に進むと、緑に囲まれ静寂に包まれる楠木正成殉節地がありました。

 

湊川の戦いで勇猛果敢に戦った楠木正成でしたが、多勢に無勢で最期を覚悟し、この場所で弟の楠木正季(くすのきまさすえ)と「七度生まれかわっても朝敵を滅ぼす」と誓い合い、刺し違えて自刃し、一族郎党73人も後を追ったと伝わっています。

 

明治新政府の樹立に貢献した佐賀藩「楠公義祭同盟」の出身者である大隈重信(おおくましげのぶ)、江藤新平(えとうしんぺい)、大木喬任(おおきたかとう)がそれぞれが一対づつ奉納した大燈籠や、初代兵庫県知事であり湊川神社創建に深く寄与した初代内閣総理大臣・伊藤博文(いとうひろぶみ)が大蔵少輔兼民部少輔時代に奉納した一対の燈籠など、楠木正成を偲んだ勤皇精神の志気の跡がのこる貴重な史跡でもあります。

 

また、神門の右手側には楠木正成の墓所があります。

湊川神社_楠木正成墓所
神門の右手に別の門があり、この奥が楠木正成の墓所です。

 

湊川の戦い後、地元の人々にひっそりと祀られていた楠木正成の墓が見つかったのは、豊臣秀吉の太閤検地の際で、その後江戸時代に入り尼崎藩二代藩主・青山幸利(あおやまよしとし)により五輪の供養塔が建てられました。大日本史を編纂し日本の国柄について深く思いを致していた水戸藩二代藩主・徳川光圀は、楠木正成を非常に敬慕していて、墓碑を建立し、現代にものこっています。

湊川神社_楠木正成墓碑
楠木正成墓碑が大切に祀られ、現代にも受け継がれています。
湊川神社_徳川光圀像
楠木正成墓所には墓碑を建立した徳川光圀の像もありました。

 

 

楠公墓所の御朱印

楠木正成の墓所を参拝した証の御朱印もいただくことができ、御本社の御朱印と同じく、本殿近くの社務所授与所にて初穂料は500円でした。
「菊水紋」「臣子之亀鑑大楠公廟」「徳川光圀公建立嗚呼忠臣楠子之墓」の朱印に、「奉拝」「参拝日付」の墨書きのデザインです。

湊川神社_御朱印_楠公墓所
楠公墓所の御朱印には墓所にまつわる歴史が刻まれています。

 

朱印にある「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」という文言は、徳川光圀が自ら筆をとり書をしたため、その書体が墓碑に刻まれているそうです。

 

「臣子之亀鑑(しんしのきかん)」という文言は、明治天皇が神社創建の御沙汰で
精忠節義(せいちゅうせつぎ)
其功烈萬世輝(そのこうれつばんせいにかがやき)
真千歳之一人(まことにせんざいのいちにん)
臣子之亀鑑候(しんしのきかんにそうろう)
※楠木正成の忠義の功績は永遠に輝き、千年に一人の存在で臣下の鑑である
と記されたことからとられているそうで、楠木正成の忠義や神社・墓所創建の歴史が御朱印の中に凝縮して表現されています。

 

ご紹介した御本社と楠公墓所の御朱印は、株式会社四国遍路が制作・販売しているオーダーメイド納経帳・御朱印帳「千年帳」に書いていただきました。
本紙は、高知県で伝統的に受け継がれている「土佐和紙」の中でも、現地で栽培・収穫された楮(こうぞ)という植物原料を使い、伝統的な製法で職人さんが1枚1枚手漉きした「土佐手漉和紙」で、墨の染み込み方が絶妙で、払いの部分のかすれが美しく表現されていると思います。あたたかみのある乳白色の紙色に朱印が映えていて、いただいたばかりの御朱印なのに、長くそこに記載されていたかのような感じがしたのが不思議で、私にとってとても特別な御朱印に感じられました。
※千年帳の本紙に関しては、以下リンクで詳しく紹介されていますので、ご参照ください。

 

千年帳とは:本紙

 

 

湊川神社は、忠義の武将・楠木正成を御祭神として祀り、特に江戸時代から明治時代にかけて、天皇への忠義の象徴として信仰されてきた歴史があり、現代でも楠木正成の威光にあやかろうとたくさんの参拝者が訪れています。いただける御朱印にも楠木正成の忠義の歴史がしっかりと刻まれていますので、御朱印に記載されている内容にもぜひ注目してみてください。

 

※同じ兵庫県内の淡路島にある楠木正成ゆかりの松帆神社に関して、以下リンクの記事で紹介されていますので、こちらもぜひご覧ください。

 

【御朱印情報】兵庫県「松帆神社」の楠木正成ゆかりの名刀・菊一文字の御朱印

 

 

 

スポンサーリンク



御朱印情報マップ

関連記事

千年帳バナー 千年帳バナー