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【御朱印情報】「日本三大東照宮」でいただける御朱印

江戸幕府を開いた武将・徳川家康を「東照大権現」として祀る東照宮が全国各地にあり、その中でも「日本三大東照宮」とされる有名な東照宮(日光東照宮、久能山東照宮、世良田東照宮、上野東照宮)の概要といただいた御朱印をまとめてご紹介します。

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「東照宮」とは

「東照宮(とうしょうぐう)」とは、江戸幕府初代将軍の徳川家康(とくがわいえやす)を「東照大権現(とうしょうだいごんげん)」として祀る神社のことをいいます。

 

元和2年(1616年)4月2日、死が迫っていることを悟った徳川家康は、臨済宗の僧でで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け江戸時代の礎を作ったとされる金地院崇伝(こんちいんすうでん)、天台宗の僧で江戸幕府の朝廷政策・宗教政策に深く関与したとされる南光坊天海(なんかいぼうてんかい)、家康の隠居先の駿府に付き従った最側近の武将とされる本多正純(ほんだまさずみ)を呼び、遺言しました。

 

”御大漸の後は久能山に納め奉り、御法会は江戸増上寺にて行はれ、霊牌は三州大樹寺に置れ、御周忌終て下野の国日光山へ小堂を営造して祭奠すべし、京都には南禅寺中金地院へ小堂をいとなみ、所司代はじめ武家の輩進拝せしむべし”
→遺体は久能山(駿河)に納め、葬儀は増上寺(江戸)で行い、位牌は大樹寺(三河)に安置し、一周忌が過ぎてから日光山(下野)に堂を建てて勧請せよ、南禅寺金地院(京都)にも堂を建て、そこでは所司代(京都駐在の幕府役人)をはじめとする武士たちが参拝できるようにすること

 

同年4月17日に家康は駿府城で薨去し、遺言に従って、柩はその晩に久能山へ運ばれました。同年12月には江戸幕府によって久能山に東照社が創建されます。これに伴い朝廷は翌元和3年(1617年)2月21日に、神社としての東照社に「東照大権現」の神号を宣下するとともに正一位を贈位、さらに神格化された家康本人に対しても同年3月9日正一位を贈位します。

 

江戸幕府は日光にも東照社の建設を進め、家康薨去の一周忌にあたる同年4月17日に遷座祭を挙行し、久能山と日光に二つの東照大権現が並び立つことになりました。また、ほぼ同時期に2代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)は、江戸城内の紅葉山にも東照社の社殿を造営しました。

 

時が進み、正保2年(1645年)に宮号の宣下があり、東照社は東照宮と号するようになり、現代にその名称が受け継がれています。

 

以後、東照社(東照宮)は各地の幕府領や家康の子孫である御三家など親藩も独自に望んで勧請し、3代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が諸大名に造営を勧めたこともあって、譜代大名および将軍家と縁戚関係がある外様大名も競って東照大権現を祀り、全国で500社超が建てられるに至ったとされています。
しかし、明治維新による江戸幕府の崩壊とそれに続く神仏分離・廃仏毀釈と相まって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社となっています。

 

 

「日本三大東照宮」とは

全国各地にある東照宮のうち、特に歴史的に重要視されている東照宮を「日本三大東照宮」と呼ぶことがあります。
徳川家康の遺言に出てくる、遺体を最初に埋葬した「久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)」と、一周忌後に創建された「日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)」が、三大のうち二大であるというのは通説ですが、残りの一社は明確には定められておらず、いくつもの東照宮が候補に挙がり、それが以下のような東照宮です。

 

●鳳来山東照宮(ほうらいさんとうしょうぐう):愛知県新城市
徳川家康の生母・於大の方が鳳来寺に参籠し、徳川家康を授けられたという伝説を知った徳川家光の大号令で創建された東照宮。

 

●瀧山東照宮(たきさんとうしょうぐう):愛知県岡崎市
徳川家康が生まれた岡崎城の鬼門を護る神社で、東照宮という宮号宣下の翌年の創建された東照宮。

 

●仙波東照宮(せんばとうしょうぐう):埼玉県川越市
徳川家康の遺体が久能山から日光山に改葬される際に立ち寄り、南光坊天海によって喜多院で法要が行われ、その後に創建された東照宮。

 

●世良田東照宮(せらだとうしょうぐう):群馬県太田市
徳川家康が関東に入封の際に、世良田を発祥地とする世良田氏の末裔を自称した「徳川氏発祥の地」にある東照宮。

 

●上野東照宮(うえのとうしょうぐう):東京都台東区
天海大僧正の遺言で、藤堂高虎(とうどうたかとら)が上野の自邸の敷地内に創建した東照宮。

 

本記事では、日本三大東照宮とされる東照宮のうち、オーダーメイド納経帳・御朱印帳「千年帳」サイトの記事で御朱印を取り上げた東照宮の概要と御朱印の情報を以下にまとめてご紹介します。

 

 

「日光東照宮」の御朱印

栃木県日光市にある「日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)」は、260年にもわたった江戸幕府の初代将軍・徳川家康の死後に遺言に従って息子・徳川秀忠、孫・徳川家光らによって元和3年(1617年)に造営された東照宮です。
日本の代表的な神社建築様式である「権現造」が究極的に完成したといわれる豪華絢爛な建築物が現代にものこり、周辺の山林も含めて古来の神道思想に基づく信仰形態と自然が一体となった宗教空間が創り上げられていることなどの理由により、平成11年(1999年)に日光山内にある建造物群103棟や周辺の山林とともに「日光の社寺」としてユネスコの世界文化遺産に登録されています。

 

日光東照宮では、徳川家ゆかりの2種類の御朱印をいただくことができます。

 

まずは、境内入口にある御朱印授与場所にていただける日光東照宮本宮の御朱印で、初穂料500円でした。右上に徳川家の家紋である三つ葉葵が押印されており、シンプルで伝統を感じさせる御朱印です。

日光東照宮本宮_御朱印
御朱印の右上に徳川家の家紋である三つ葉葵の紋の朱印がおされるのが特徴の日光東照宮本宮の御朱印です。

 

次に、徳川家康のお墓がある奥宮でいただける日光東照宮奥宮の御朱印で、書き置きタイプで初穂料は400円でした。
奥宮は207段の石段を登った先にあり、たどり着くのに少々苦労しますが、一段と空気が澄んでおり、神々しい雰囲気がありますので、ぜひ訪れていただきたいです。

日光東照宮奥宮_御朱印
日光東照宮奥宮でいただける書き置きの御朱印にも、三つ葉葵の朱印がおされています。

 

※日光東照宮に関して、以下リンクの記事でさらに詳細にご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

 

【御朱印情報】栃木県「日光東照宮」の本宮と奥宮でいただける御朱印

 

 

「久能山東照宮」の御朱印

静岡県静岡市駿河区にある「久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう)」は、駿河湾を見渡すことができる標高216mの久能山の山頂に境内を構え、徳川家康を東照大権現として祀る神社です。
徳川家康が駿河に進出後に久能山城を使用し、江戸時代に入って徳川家康が亡くなり元和2年(1616年)に久能山に埋葬されました。その翌年に東照社が建立され、正保2年(1645年)に東照宮と改称されました。徳川家康の遺命によって遺骸が埋葬された久能山東照宮は、その後全国に広がっていく東照宮の創祀であり、特に江戸時代には全国に名を知られる聖地として崇められてきた歴史があります。

 

久能山東照宮では、徳川家康とのご縁を結ぶことができる御朱印が授与されています。

 

「久能山東照宮」「駿河国久能山」の朱印に、「奉拝」「久能山東照宮」「参拝日」が墨書きされる、伝統的でシンプルなデザインの御朱印を、社務所にて初穂料300円で御朱印帳に直書きしていただきけました。

久能山東照宮_御朱印
ゆっくり時間をかけて、オーダーメイドの御朱印帳「千年帳」の楮紙本紙に丁寧に書き入れていただいた久能山東照宮の御朱印です。

 

久能山東照宮では、基本的な御朱印の他にも、特殊な形状の御朱印がいくつか授与されていて、そのうちのひとつが「プラモデルランナー風御朱印」で、初穂料は1,000円でした。ランナーとは、プラモデルの組み立て前の部品とつながっている枠のことをさし、御朱印がプラモデルのパーツ風に紙製の切り絵で表現されているユニークなものです。
この御朱印が授与されることになったのは、久能山東照宮がある静岡県が日本における模型産業・プラモデル文化のルーツとされていて、徳川家康とも関連するという経緯があります。

久能山東照宮_御朱印_プラモデルランナー風
プラモデルランナー風御朱印にデザインされている「ソハヤノツルキ」は、徳川家康の愛刀で、徳川家康の死後は霊刀として久能山東照宮が所蔵しています。

 

※久能山東照宮に関して、以下リンクの記事でさらに詳細にご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

 

【御朱印情報】静岡県「久能山東照宮」の徳川家康を祀る東照宮創祀の御朱印

 

 

「世良田東照宮」の御朱印

群馬県大田市にある「世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)」は、江戸時代初期の寛永21年(1644年)に3代将軍・徳川家光の命により、南光坊天海が住職をしていた長楽寺の境内に創建されました。
長楽寺には徳川氏の遠縁にあたる世良田義季(せらだよしすえ)の墓があります。この世良田義季は清和源氏の血筋の武人で、徳川家康が関東に進出し、開拓をする際に徳川(または得川)義季を名乗り、これが徳川氏発祥とされていて、のちも徳川将軍家に重要視されていたことから、「日本三大東照宮」のひとつとされることがあります。

 

世良田東照宮創建の際、2代将軍・徳川秀忠が造った日光東照宮の奥社の多宝塔、唐門、拝殿が移築されており、それらは現在は国の重要文化財に指定されています。拝殿は江戸城や名古屋城も手掛けた江戸時代初期の大工・中井大和守正清の最後の作ともいわれており、当時の建築の特色をよく表しています。
また、境内の建造物の多くの彩画は、江戸幕府御用絵師で、二条城の障壁画制作などで知られる狩野派を若くして率いていた巨匠・狩野探幽(かのうたんゆう)が手掛けています。
建造物や装飾にも非常に力を入れていたことからも、世良田東照宮が徳川家にとって重要であったことがうかがえます。

 

世良田東照宮の御朱印では、もちろん徳川家にまつわるデザインの御朱印が授与されています。

 

右上には徳川家の家紋である三つ葉葵が押印され、その下には「徳川氏発祥の地」の印が押されます。他の東照宮の御朱印にも三つ葉葵の印が押されることは多いですが、「徳川氏発祥の地」は世良田東照宮でしかいただけない特別なものです。

世良田東照宮_御朱印_徳川氏発祥の地
「徳川氏発祥の地」の印が他の東照宮にはない唯一無二の特別感がある世良田東照宮の御朱印です。

 

※世良田東照宮に関して、以下リンクの記事でさらに詳細にご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

 

【御朱印情報】群馬県「世良田東照宮」の「徳川氏発祥の地」の御朱印

 

 

「上野東照宮」の御朱印

東京都台東区にある「上野東照宮(うえのとうしょうぐう)」は、徳川家康の死後の寛永2年(1625年)に、江戸城の鬼門の方角にあたる現在の上野恩賜公園の土地に東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)が開山され、境内には僧侶が集まり修行をする場所である伽藍が多く建立され、その一つとして造られた神社「東照社」が現在の上野東照宮の始まりとされています。
遠方の日光東照宮までお参りができない江戸の人々のために、日光東照宮のような豪華絢爛な造りにされたそうで、全国の大名からは約250基もの灯籠が奉納されています。
江戸幕府の拠点であった江戸の街で、東照大権現を身近に感じ、お参りもしやすい立地であったことから、日本三大東照宮のひとつとされることがあります。

 

上野東照宮では、シンプルなデザインの御朱印から期間限定の芸術的な御朱印など多彩な御朱印が授与されています。

 

上野東照宮のベーシックな御朱印は、神社名と日付の非常にシンプルな御朱印で、他の東照宮でよく押される徳川家の家紋・三つ葉葵の朱印がなく、東照宮の御朱印の中ではある意味珍しい部類に入り希少性があります。

上野東照宮_御朱印
右下のダリアの印はダリア展期間中の限定印で、この印は季節や祭事にあわせて変更される上野東照宮の御朱印です。

 

ベーシックな御朱印の他に、季節や祭事にあわせて期間限定の多種多彩な御朱印が授与されていて、こちらの御朱印には東照宮の御朱印でおなじみの三つ葉葵がデザインされているものもあります。

 

 

※上野東照宮に関して、以下リンクの記事でさらに詳細にご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。

 

【御朱印情報】東京都「上野東照宮」の月替わり・季節替わりの限定御朱印

 

 

日本三大東照宮とされる東照宮の概要と御朱印をご紹介しました。江戸幕府の繁栄を象徴する豪華絢爛な建築物を有する神社が多く、見どころがたくさんある神社ばかりですので、ぜひ一度訪れてみていただき、参拝の証として徳川家康ゆかりの御朱印をコレクションしていくのもおすすめです。

 

 

日本三大東照宮マップ

 

 

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