- 【御朱印帳】土佐手漉和紙「朝光」 小判 38ページ 楮紙 白米×淡黄蘗
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広島県「安芸の宮島(厳島)」は古くから信仰の対象として崇められ、島内にはユネスコ世界文化遺産に登録されている「厳島神社」をはじめ、複数の寺社があります。4ヶ所の寺社(厳島神社、大聖院、大願寺、豊国神社)の概要といただける御朱印の情報を厳選してご紹介します。
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広島県廿日市市の瀬戸内海・広島湾の西の端、周囲約30km、面積30.2㎢の楕円形の形状をなしている島が「安芸の宮島(あきのみやじま)」の通称で知られる正式名称「厳島(いつくしま)」です。
弥山(みせん)を主峰とする原始林に覆われた山々の山容に霊気が感じられるとされ、太古から自然崇拝の対象とされてきました。
安芸の宮島の崇拝の象徴となってきたのが「厳島神社(いつくしまじんじゃ)」で、社伝によると推古元年(593年)に地域の有力豪族・佐伯部(さえきべ)の佐伯鞍職(さえきくらもと)により現在の場所に創建されたと伝わっています。
平安時代初期の大同元年(806年)には、唐に渡っていた名僧・弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が帰国し、京の都へ帰る途中に宮島から霊気を感じ、弥山に御堂を建て、百日間の求聞持を修法したといわれています。このとき修法で使われた火が、今なお弥山霊火堂で「消えずの火」として燃え続けているそうです。
平安時代後期の久安2年(1146年)には、当時隆盛を極めていた武家である平家の平清盛(たいらのきよもり)が安芸守に任ぜられました。
平清盛は、夢枕に立った老僧から「厳島神社を造営すれば、きっと位階を極めるであろう」という示現を受け止め、厳島神社を深く信仰し、あつく庇護しました。
当時には、都から平家一門のほか、後白河上皇・高倉上皇・建春門院・建礼門院・中宮徳子らの皇族や貴族が社参したという記録がのこっています。
平家が滅びた後も、鎌倉幕府や室町幕府、地元の領主となった大内氏や毛利氏、また、豊臣秀吉などにも信仰され、歴史的に重要な役割を果たしてきました。
江戸時代初期、全国を行脚した儒学者・林春斎(はやししゅんさい)が「日本国事跡考(にほんこくじせきこう)」において、日本国内で卓越した三つの景観として、陸前(りくぜん、現在の宮城県)の松島(まつしま)、丹後(たんご、現在の京都府北部)の天橋立(あまのはしだて)とならび、安芸の宮島が紹介されました。
日本を象徴する絶景として、和歌や文学などにたびたび登場しました。誰もが一度は訪れてみたいあこがれの地として、全国屈指の観光名所にもなっていきます。
大正12年(1923)に宮島全島が国の史跡名勝に指定され、昭和25年(1950年)には瀬戸内海国立公園に指定され、美しい景観の保護活動も盛んになります。平成8年(1996年)12月に、厳島神社が原爆ド-ムとともにユネスコの世界文化遺産に登録され、現在では世界中から人が訪れる島になっています。
安芸の宮島の島内には、厳島神社をはじめとして複数の寺社があり、参拝の証として御朱印をいただくことができます。比較的コンパクトな範囲で巡ることができるので、宮島は御朱印巡りでも人気です。
本記事では、安芸の宮島の島内にある4ヶ所の寺社の御朱印を厳選してご紹介します。
安芸の宮島の信仰文化の象徴であるのが「厳島神社(いつくしまじんじゃ)」です。
平安時代後期に、当時隆盛を極めていた武家・平家の平清盛があつく信仰したことで知られ、鎌倉時代や室町時代にも幕府や皇族・貴族から庇護され、歴史の表舞台にたびたび登場している神社です。
厳島神社の本殿や大鳥居は、島の陸地の上ではなく海の上に建てられているのが特徴です。わざわざ海の上に造営したのは、神として崇められている島そのものを傷つけないことが理由だとされています。安芸の宮島のシンボルにもなっている厳島神社の大鳥居は、干潮時にしか鳥居の中をくぐることができないことでも知られています。
厳島神社でいただける御朱印は、厳島神社の社紋(神社の家紋)「三つ盛り二重亀甲に剣花菱(みつもりにじゅうきっこうにけんはなびし)」が中央上部に押されます。
厳島神社でこの社紋が使われるようになった理由は詳しくわかっていないそうですが、社伝によれば、厳島神社の子社の1つ「御床神社(みとこじんじゃ)」が建つ、岩盤の割れ目の形状がモチーフになったのではと考えられているそうです。御床神社は、厳島神社周辺にある7つの神社のうちの1社で、これら7社まとめて「七浦(ななうら)神社」と呼ばれています。
また、主祭神である「宗像三女神」の三人の女神を「三つ盛り」をもちいることで表しているという説もあるようです。
厳島神社の御朱印は、本殿右側の授与所にていただけ、初穂料は300円でした。
ただし、この授与所は有料拝観エリア内のため、御朱印をいただくには別途拝観料金を納める必要があり、大人:300円、高校生:200円、小・中学生:100円ですのでご留意ください。
※厳島神社に関して、以下リンクの記事でさらに詳細にご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【御朱印情報】安芸の宮島にある世界遺産の広島県「厳島神社」の御朱印
「大聖院(だいしょういん)」は、大同元年(806年)に唐から帰ってきた弘法大師空海が宮島の弥山で修行をしたことが始まりとされています。平安時代末期には、宮島を訪れた鳥羽天皇の命により勅願道場として本堂の勅願堂が建てられました。天正12年(1584年)には、皇族が住職を務める門跡寺院のひとつである京都・仁和寺(にんなじ)の仁助法親王(にんじょほうしんのう)の滞在もあった名刹で、現在も真言宗御室派(しんごんしゅうおむろは)の大本山として多くの参拝者をあつめています。
かつては十二坊の末寺をもつ規模を誇り、厳島神社の別当寺(べっとうじ)として祭祀も行っていました。厳島神社で行われている旧暦7月14日の玉取祭や大晦日の鎮火祭は、元々は大聖院から始まった年中行事です。また、現在は大聖院の観音堂に安置されている十一面観世音菩薩は、かつては本地仏(ほんじぶつ)として厳島神社の奥殿にありました。明治時代の廃仏毀釈により、大聖院に移されました。
大聖院の御朱印は、鳥羽天皇が命じて建てられた勅願堂に安置されている波切不動明王が墨書きされています。鳥羽天皇はここ宮島で、日本国内の安寧と繁栄を願われました。この波切不動明王は、のちに豊臣秀吉によって文禄の役で軍艦船宝丸に安置されたと伝わっています。秀吉は波切不動明王を御身仏とし、戦いの必勝と航海の安全を祈願したそうです。
また、大聖院では折にふれ限定御朱印が授与されています。令和5年(2023年)の秋には、限定の切り絵御朱印をが2種類授与されていました。
「彼岸花とジョウビタキ」は、台紙一面に彼岸花が切り絵で描かれています。越冬のために宮島に渡来するジョウビタキが飛ぶ姿が、秋の訪れを告げているようなデザインです。
「宮島の海と金木犀」は、波間に浮かぶ金木犀が香りを運んでくるようです。箔押しは夜空に浮かぶ月の姿をしており、彼岸花とは対照的な静けさの世界を表現しています。
デザイン性豊かな多種多様な期間限定御朱印が授与されていますので、参拝時にはお気に入りの御朱印を見つけてみてください。
※大聖院に関して、以下リンクの記事でさらに詳細にご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【御朱印情報】広島県「大聖院」の秀吉ゆかりの御朱印と秋の切り絵御朱印
「大願寺(だいがんじ)」は、高野山真言宗の寺院です。開山の年代についてはっきりとわかっていませんが、鎌倉時代の建仁年間(1201~1204)に僧侶・了海(りょうかい)によって再興されたと伝わっています。
明治時代に入るまでは、東側は現在は豊国神社がある塔の岡(とうのおか)周辺から、西側は経塚のある経の尾(きょうのお)あたりまでが大願寺の境内であったとされていて、隣接する厳島神社や厳島神社の別当寺だった大聖院と一体となって「宮島伽藍(みやじまがらん)」と呼ばれる大伽藍を形成していました。
当時は、大願寺の本堂は宿坊であり、大経堂だった現在の豊国神社の千畳閣(せんじょうかく)が本堂となる予定(未完成のまま現在に至る)だったとか。
昔、宮島に訪れる参拝者は、海に浮かぶ大鳥居をくぐった後に、大願寺近くの砂浜に上陸し、大願寺の裏手にある大風呂で身を清めてから厳島神社に参拝するという風習があったそうです。
大願寺には、宮島に現存する仏像の中で最古とされている重要文化財の「木造薬師如来座像」や、千畳閣の本尊として祀られていた重要文化財の「木造釈迦如来座像」、釈迦如来像の両脇に鎮座していた阿難尊者像と迦葉尊者像をはじめとする数多くの歴史的価値の高い仏像が安置されています。
大願寺の御朱印は、本堂の左手にある御朱印授与所でいただくことができます。
「厳島辯財天」「参拝日」の墨書きと、右上に「日本三辯天 厳島辯財天」、中央に「三つ亀甲に剣花菱紋」、左下に「大願寺印」の朱印がおされるデザインです。三つ亀甲に剣花菱は、亀甲の中に剣花菱を描いた文様を三角形に配置した紋で、この紋は厳島神社の神紋でもあり、厳島神社と大願寺のつながりの深さを御朱印からも感じることができます。
厳島辯財天(いつくしまべんざいてん)は、明治期の神仏分離の際に、厳島神社から大願寺に移された仏像です。
平安時代初期に仏師としても活躍した僧侶・弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)作と伝わる仏像であり、毎年6月17日の年に1度の開帳時のみ姿を拝める秘仏です。
御朱印右上の「日本三辯天 厳島辯財天」の朱印が示すように、本堂に祀られている厳島辯財天は、江の島(神奈川県)の弁財天、近江(滋賀県)の竹生島神社の弁財天と並ぶ「日本三大弁財天」の一つに数えられています。
弁財天は開運・商売繁盛・芸術などのご利益が期待できるといわれていて、大願寺には厳島辯財天のご利益にあやかろうとたくさんの参拝者が訪れています。
※大聖院に関して、以下リンクの記事でさらに詳細にご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【御朱印情報】広島県「大願寺」の日本三大弁財天「厳島辯財天」の御朱印
「豊国神社(ほうこくじんじゃ)」は、現在は厳島神社の末社で、安土桃山時代の天正15年 (1587年)に豊臣秀吉(とよとみひでよし)が毎月1度千部経を読誦するための仏堂として、臨済宗の僧侶・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に命じて建立させた堂宇が起源です。
その後、豊臣秀吉が急死してしまい工事が中止になったため建物は未完成で、現在でも天井はほとんど張られておらず、壁や畳もなく、どっしりとした太い柱と板張りの床が目立つ状態のまま現代に引き継がれています。
ただ、軒瓦に金箔が押してあったり、堂内が広々としていたりと、無事に建物が完成していれば、安土桃山時代を代表するような壮麗な建物になっていたのではないかと考えられています。江戸時代には、納涼の場や交流の場としても、活用されていたそうです。
857枚もの畳を敷けるほど広い本瓦葺きの堂宇は、宮島の中で最も大きな木造建築物としても有名で、「千畳閣(せんじょうかく)」の別名でも親しまれています。
豊国神社の御朱印は、千畳閣内の社務所でいただけます。御朱印の完成を待つ間に、堂内を見学したり、ひと休みしたりするのもおすすめです。
豊国神社の御朱印には、「奉拝」「豊国神社」「参拝日」の墨書きに加えて、「五七の桐紋」と「千畳閣」「宮島」の文字が書かれたしゃもじの朱印が押されているのが特徴です。中央に押印された五七の桐紋は、中央に7つ、左右に5つの配した桐の花と、3枚の桐の葉を組み合わせた桐紋であり、豊臣秀吉の家紋としても知られています。
中央の下部にデザインされた「しゃもじ」は、宮島を代表する特産品です。
宮島しゃもじは、厳島神社の弁財天が手にしている琵琶を象って作ったのが始まりとされていて、しゃもじでご飯をすくうことが「敵や幸せを召し取る(飯取る)」ことに通ずるとして、宮島ならではの縁起物として人気です。
※豊国神社に関して、以下リンクの記事でさらに詳細にご紹介していますので、こちらもぜひご覧ください。
【御朱印情報】広島県「豊国神社」の豊臣家紋と宮島しゃもじがデザインされた御朱印
広島県「安芸の宮島(厳島)」にある厳島神社、大聖院、大願寺、豊国神社の概要といただける御朱印をご紹介しました。
太古から神が宿るとして崇敬をあつめてきた宮島の複数の寺社は密接に関係していて、信仰の歴史はたいへん興味深いです。コンパクトな範囲に立地しているそれぞれの寺社に見どころがたくさんありますので寺社巡りにたいへんおすすめです。参拝の記念にはぜひ御朱印をいただいて、御朱印巡りも楽しんでみてください。
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